いわなみ家の話
第二話
「寿司桶のトラウマ」
今、パン屋を一人でやっていますが、20年前のシューカツではA社、Y社、M社などの大きな新聞社の写真記者を希望しました。
主に事件や事故、災害などを撮影する報道カメラマンです。
入社の実技試験は福岡県北九州市の小倉城公園にて。
「テーマはシロです。制限時間内に好きなシロを撮ってきてください」
と言い渡されて、
私「どんなシロでもいいんですか?」
人事部「いいですよ~どんどん撮っておいで~」
私「雲の白さとかでも?」
人事部「はい~?シロ、城!小倉キャッスルだよ、江口くん!」
PUFFYみたいな頭をして、APSカメラで受験した当時の私は、すっとんきょうな発言と外見で目立っていたのかもしれません(笑)
シロだかPUFFYだかAPSだか、何が功を奏したのかは定かではありませんが、晴れて入社し、その後9年間、九州と東京でさまざまな現場を経験しました。
その記者生活の中でも、今のパン屋の私につながる出来事をお話ししようと思います。
新聞社に入って1年目の夏の終わり、福岡県で立てこもり事件が発生し、1人の少女を人質に男が建物二階に居座りました。
私たち報道陣は、警察の非常線のすぐそばに陣取って、少女の救出を待つ以外にできることはありませんでした。
日付が変わった頃、警察の方が寿司桶を持って二階へ差し入れに行くのが見えました。食べてくれたらいいな、と、こちらも少しほっとしました。
それからしばらくして、事態は急変。
警察官がバタバタと二階へ駆け上がったすぐあとに救急車が横付けされ、「だめだったらしい」と他社の記者が話しているのが聞こえてきました。
少女を搬送する救急車を、他社カメラマンたちは走って追いかけていきました。
わたしはそれが出来ませんでした。
(お寿司、食べたかな、ごめんごめんごめん何もできなかった)とその場でカメラを構えたまま。
空が白んできたころ、ほとんど何もシャッターを切らなかったカメラをぶら下げて会社へ戻りました。
この取材は今でもトラウマです。
この少女の死から、わたしはその後も写真記者を継続する力を得ていました。
同時に、辞める決心を固める力にもなりました。
わたしは寿司桶を差し入れる人になりたかったのです。
できれば、寿司も自分で作って、直接、渡したかった。
寿司でもおにぎりでもパンでも。
自分の手で作ったお腹を満たすものを、
目の前の人に手渡す仕事をしたいと思いはじめていました。
その頃はまだ、パンのパの字もかじっていませんでした。
たまの休日に、パンのレシピ本を開いて作ってみる程度。
趣味が趣味でなくなってきた話は、また今度。