「パートの岩波さん」

いわなみ家の話

第四話

「パートの岩波さん」

 

名門パン学校を卒業したくらいで、そう簡単にパン屋になれるはずもなく・・・

31歳の学生が次に選んだのは、

ごく普通の、「パートの岩波さん」でした。

パートの岩波さん、恋に落ちる?

 

以下は、2019年の暮れ、今のパン屋さんを開業した頃にインスタグラムに投稿した記事です。

(加筆あり)

私30前まで新聞社で働いてましたが、その退職金のほとんどを東京のパン学校につぎ込みました。

パン学校を良い成果で卒業できたので、働いてみたいパン屋に推薦してもらうことができ、1年半という短い期間でしたが、東京駅の駅ナカ、ドミニクサブロンというパン屋さんで修行しました。朝5時半のメトロに乗って。

修行といっても、「パートの岩波さん」が任されたのは、デニッシュのナパージュ(つや出しのあんずジャム)ぬり、粉糖がけ、各種クリーム作り、、、。来る日も来る日も麺台(スーパースターの先輩たちがパン生地を成形するところ)をチラチラ見ながらナパージュを塗っていました。

ある日、榎本哲シェフから、「岩波さん麺台入って」と言われ、ドッキドキで憧れの成形をさせてもらえました。その後、焼成、シーター(クロワッサンなどの折り込み生地作り)など覚えていきました。

部下の働きをすべて把握していて、的確な指導をするシェフは、暇さえあれば、ほうきで床そうじをしていました。もう一人の女性パン職人、最上さんは営業の最後に床を這いつくばってぞうきんがけする人でした。すごい人の背中を見てすごい人が育っている環境でした。

わたしがシェフに指導を受けたのは1年半で総計30分くらいなものです。あのとき5分、あのとき10分。

その数分ずつを今に抱えてパン焼いています。片思いしているのがバレバレですね!!(笑)

先日、思いがけず、シェフからメッセージが。

「開店祝いにシュトーレン送らせてください。体に気をつけて楽しく仕事してください」と。

主婦の岩波さんが店ひらくってどこでご存知になったかもわかりませんが、感涙でした。

榎本哲シェフは当時、都内に何店舗も支店を持つドミニクサブロンの統括シェフでした。

パートの身分にはまさに雲の上の人。

「今日、榎本さん来るってよ!」

「やっべ!」

の日は、工房がざわつき、スタッフみんなが掃除を始めたものでした。

榎本シェフ、現在は、東京・神楽坂にご自身がオーナーシェフを努めるパン屋を開いています。

先日お見かけした、料理雑誌の写真にも、工房の奥にあこがれのお姿が。

ほうきで床そうじしていらっしゃいました!

 

 

 

「退職金のゆくえ」

いわなみ家の話

第三話

 

「退職金のゆくえ」

 

2010年秋、於・本社人事部

九年前、ミレニアム入社の私たちを大歓迎してくれた人事部のフレンドリーおじさんも、さすがに表情が暗い。

人事部「ざーんねんだなー、江口くん。結婚したんだっけ?仕方ないかー?」

私「はぁ(結婚が退職理由じゃないですけど!)」

人事部「ま、座って」

私「失礼します」

人事部「これが勤続年数と退職金のグラフ。えーっと、江口くんは勤続9年だから、、」

私「・・・」

人事部「85万円くらいかな」

私「・・・」

 

社内の雑談で、60歳定年間際のおじさまたちが満額2000万円強だとか話していたことは、この際、聞かなかったことにしよう。

85万円あれば、あの学校に行ける!

会社を退職してすぐ入学したのは「ル・コルドンブルー」。

フランスの名門料理学校の東京・代官山校(現在は閉鎖)です。

パン作りを趣味で終わらせたくないという意地が、高額な授業料を払う勇気になりました。実のところ85万円では足りなかったのですが(笑)

大人になってからの学びは、真剣さが違います。31歳、鼻息荒くして学生になりました。

「習ったことは全部、体に染み込ませ、首席で卒業してやるっ。」

芸能人も訪れるおしゃれタウン代官山に通うも、服や靴など見向きもせず、ひたすら1年半、目の色を変えてパンを学びました。

水を得た魚、いや、バターを得たパンのように、我ながらイキイキと。

当初の目標を達成して、修了式ではゴールドのメダルをシェフから授与されました。

 

最近、当時のクラスメートとお茶する機会がありました。

「なつかしいねぇ。あのとき、スピーチの壇上で聡子くん、40歳までにパン屋になります!って宣言してたよね~」

 

 

 

 

【完売しました4月27日(火)】

 

【本日完売。4月27日(火)】

黒ごまチーズベーグめがけて、おこづかい片手に買いにきてくれていた、近所の少年の、おじいちゃんが先日亡くなりました。

中学校生活はどうだい?また買いにきておくれよ。待ってるよ!

今日はキミの大好きなベーグル、郵便受けにいれとくから、学校から帰ったら、じいちゃんと食べてね!

 

【4月27日(火)ラインナップ】

山食
パン・ド・カンパーニュ
ノアレザン
チーズとナッツのハードパン
アーモンドトースト
黒ごまチーズベーグル
塩あんこベーグル
ブルーベリーベーグル
ブルーベリーベーグクリームチーズサンド
やっこいあんバターサンド
ころころチーズパン
マロングラッセのバトン
オレンジピールとクリームチーズ
いわなみ家のグラノーラ
珈琲舎雅のドリップコーヒーパック

 

「寿司桶のトラウマ」

いわなみ家の話

第二話

「寿司桶のトラウマ」

 

 

今、パン屋を一人でやっていますが、20年前のシューカツではA社、Y社、M社などの大きな新聞社の写真記者を希望しました。

主に事件や事故、災害などを撮影する報道カメラマンです。

入社の実技試験は福岡県北九州市の小倉城公園にて。

「テーマはシロです。制限時間内に好きなシロを撮ってきてください」

と言い渡されて、

私「どんなシロでもいいんですか?」

人事部「いいですよ~どんどん撮っておいで~」

私「雲の白さとかでも?」

人事部「はい~?シロ、城!小倉キャッスルだよ、江口くん!」

 

PUFFYみたいな頭をして、APSカメラで受験した当時の私は、すっとんきょうな発言と外見で目立っていたのかもしれません(笑)

シロだかPUFFYだかAPSだか、何が功を奏したのかは定かではありませんが、晴れて入社し、その後9年間、九州と東京でさまざまな現場を経験しました。

その記者生活の中でも、今のパン屋の私につながる出来事をお話ししようと思います。

新聞社に入って1年目の夏の終わり、福岡県で立てこもり事件が発生し、1人の少女を人質に男が建物二階に居座りました。

私たち報道陣は、警察の非常線のすぐそばに陣取って、少女の救出を待つ以外にできることはありませんでした。

日付が変わった頃、警察の方が寿司桶を持って二階へ差し入れに行くのが見えました。食べてくれたらいいな、と、こちらも少しほっとしました。

それからしばらくして、事態は急変。

警察官がバタバタと二階へ駆け上がったすぐあとに救急車が横付けされ、「だめだったらしい」と他社の記者が話しているのが聞こえてきました。

少女を搬送する救急車を、他社カメラマンたちは走って追いかけていきました。

わたしはそれが出来ませんでした。

(お寿司、食べたかな、ごめんごめんごめん何もできなかった)とその場でカメラを構えたまま。

 

空が白んできたころ、ほとんど何もシャッターを切らなかったカメラをぶら下げて会社へ戻りました。

 

この取材は今でもトラウマです。

この少女の死から、わたしはその後も写真記者を継続する力を得ていました。

同時に、辞める決心を固める力にもなりました。

わたしは寿司桶を差し入れる人になりたかったのです。

できれば、寿司も自分で作って、直接、渡したかった。

 

寿司でもおにぎりでもパンでも。

自分の手で作ったお腹を満たすものを、

目の前の人に手渡す仕事をしたいと思いはじめていました。

 

その頃はまだ、パンのパの字もかじっていませんでした。

たまの休日に、パンのレシピ本を開いて作ってみる程度。

 

趣味が趣味でなくなってきた話は、また今度。

 

 

 

 

 

 

 

ブログはじめます(いわなみ家)

はじめまして。

私は、福島県会津美里町で「いわなみ家」という自家製天然酵母のパン屋を営んでいます。

この地に移住して3年目、

パン屋を開業して2年目、

自宅パン教室を始めたのは7年前、

初めてパンを習ったのは16年前、

新聞社を退職したのは11年前、

子供を産んだのは8年前と6年前。

 

そんな42歳(2021年4月現在)がお送りする、長期連載(の予定、笑)

「パンと酵母と女性の自立」

か、固いか(笑)

「パンと酵母と貧乏と開業」

これじゃ、悲しくなるか、、

「パンと酵母と生活費」

いや、同じことか、、

「パンと酵母とアタシの背中」

かっこよすぎか、、

「パンと酵母といわなみ家」

そのまんまやないかい!

「パンと酵母と移住と開業と納税と趣味と実益とやりがいと、時々子育て」

について綴る、不定期ブログです。

 

パン作り、パン屋やカフェの開業、自家製天然酵母、古民家、田舎暮らし、移住、などに興味がある方に届いたらいいなの気持ちで書きます。

んで、タイトル未定で発信はじめますが、

「とりあえずやってみる」

の精神でここまで来た私にはぴったりのブログ初回投稿となりました。

 

「とりあえずやってみる」

にしよか?タイトル。